toggle me

文久三年(1863年)創業
坂本龍馬の妻、おりょうゆかりの老舗料亭

田中家

三代目晝間富長の回想録三代目晝間富長の回想録


「満七十才になる記念の日を期して回顧録を出したいから序を書いてくれ。」という晝間さんのお話を受けて「私が?」と言ったが「是非に」とのことで気軽にお請けした。
早速原稿を一読して私は「これは安請合いに過ぎたのではなかったか。」とおそれている。
田中家が由緒の深い料亭であることはかねて知っている。
戦後逸早く現在の堂々たる建築の出来るとき、いささか御相談にのったこともある。
新時代の芸者なるものの在り方を作り出すためにというので浜おどり振興会長に私を引っ張り出しに晝間さん達が来られて以来、また特に最近は横浜商工会議所でお目にかかる機会が一層多くなって私は「これは尋常一様タヾの料亭の主人ではない。」と心ひそかに敬服していた。
この回顧録を読んで私は晝間さんのお若い頃から今日までの真面目な人生の考え方、身近な方々は勿論社会に対する、特に横浜の発展に対する深い愛情、理想を持って之が実現のためになされた努力と其の実績等が行間にあふれているのを感じて、一層晝間さんという人物に頭が下がる。
今日では満七十才というのはまだまだ老いぼれる齢ではない。
円熟された御人格で弥々御健康で世のために更に一層御尽し願いたいとともに、田中家の益々御繁栄のことを祈る。

昭和三十四年九月四日

田中省吾(横浜商工会議所会頭)

まえがき

「人の一生は重き荷を負うて、遠き道を行くが如し」とか行く手には山あり、河あり又美しい花園もある。
自分が目的地に到達すれば、如何ばかりか、欣快の事かと思う。
私が思い出に筆を染めたのは、決して自賛ではなく、唯ひたすらに自己に与えられた事業に他を顧みる暇もなく、一筋に全心を打込んだ事が、是か否か、現在の若い諸君が之を読まれて、幾分でも、人生に対してプラスになれば、誠に仕合せである。
人生はこんな美しいものであり、又航路は生やさしいものではないと、初めて分るでしょう。私は許されるなら、もう一度人生航路を船出して見たいと思って居る。
身のまわりに、遠い先祖からの眼に見えぬご加護が、絶えず私共の身辺に有り、道を誤る時は悲しみ、善いことをすると喜び、護ってくれる。私を今日あらしめた亡き人々を偲ぶことは、深い意義あることと思い、写真を掲げ、感謝の意を表わす。

昭和三十四年九月二十八日誕生の日
「人生古稀」を迎えて

晝間 富長 著

一、晝間家の祖先

晝間家は神奈川県橘樹郡旭村字獅子ケ谷四七〇番地に、周囲一町四方、水田と竹林の土地に土蔵三庫、納戸一戸外、宏大の屋敷を構え、代々名主役を務め、苗字帯刀を許されていた。
本家は附近の人々から田中の名主と呼ばれ、地方豪族の観があった。
先々代源八に貞次郎、源之助、弥兵衛、藤蔵四人兄弟が有り、長男、貞次郎は早世し次男源之助は家督を相続し、吉田村の渡辺家よりうめが入籍した。
祖母は徳川公房家に行儀見習として仕え、昔堅気の人で、小声で独り言の様に時折り古歌を口ずさんで居た。祖母は八十八才でこの世を去った。
祖父は恬淡でものに執着がなく、清く厳かに過した。その生涯を回想して、白髪を撫でながら老後を楽しむことの出来たのは、幸福と言わねばならぬ。

三男、弥兵衛は神奈川台町に旅籠屋(下田星)を譲り受け、田中家と改ため、旅館料理屋を開業し、四男、藤蔵は横浜桜木町に貸座敷を経営した。
祖父達は所を得たコースを見い出して、夫々の社会の地位について居た。
私の父は(名は末吉)川和の池辺村に生れ、横溝家の四男で入籍し、無口で謹直な人で暇があれば書物を開き、何時も「人間は真面目で勤勉でなければならぬ」と私に訓えた。
父は農村の繁栄と農民の幸福のため、身を尽して農事改革をとなえ、稲作の増収果実の栽培を奨励し、収益の増加を計り、山百合を採集して畑地に移植し、山の手の植木会社と契約し、観賞用として米国に輸出した。
農事の傍ら農事試験所に入学し、卒業後、検査委員長の席に就き、生産者を指導し、神奈川県下の農業界に多大の貢献をした。
又、太陽に浴しない不毛の地を利用し、天然飲料製氷に専念し、氷地と倉庫を二ケ所設け、県下天然製氷組合を結成、綱島村の発展に尽力した飯田助夫氏と協力して商取引を成し、綱島の新はし(現在の水明楼)を利用して、一般市民に供給し事業家として成功した。
父は後年病を得て、半身不随となり七年間長らく病床にあって、右手が不自由の為、左手で物を書かれていたが八十七才でなくなった。
村の為に随分尽したので、今でも村で愛惜しないものはない位だ。
父 の趣味は温泉旅行と釣りで、私 の釣りの趣味も親譲りである。
母の名は(ナヲ)良妻で外交的の手腕があり、特に敬神の念厚く、日本赤十字支部長に推され、私財の献金も再度ならず、非常に世話好きで、仲人として媒妁を八十組以上の多数に及び、出雲の大社の支社の如く、一般より尊敬された。
母は私に感傷的な愛を示すような事はないが、その真面目な顔にも深い慈愛のかゞやきが見えていた。
盆くれ正月に帰ると、汚れた前掛で手を拭きふき玄関に迎え、喜んでくれ、帰りの土産は持ちきれない程の野菜で、義理堅い母の心は忘れられない。
後年、母は私が急病で倒れ入院し、再度の手術を受け外出の出来ない時、発病し、唯一回の看護も出来なかった。
私に自分の余命を神に念じ、私に譲られ、家族の手厚い手当の甲斐もなく遂に八十六才でなくなった。
母は温泉旅行、映画、芝居が殊更好きで、だいぶ年をとっても眼鏡なしで楽しんだ。
母の妹(名はヌイ)は 若い頃には文明にあこがれをもち文明にとり残されまいと努めて、田舎に満足出来ず十七才の時、神奈川台の田中家に養女となる。

五、私の生い立ち

私は明治二十二年盛国、富長、武範、梅子、花子の三男二女の次男に生れた。
併しながら家長並び長男尊重の家族主義の時代で、長男以下は別待遇で育てられ、祖母が炊事を扱う時は、珍味の物は兄が第一で、私達にはおすそわけ程度で、特に学校より家へ戻った時、焼芋のおやつは、私には大好物であったが、兄だけでお預けの時が再三あり、それで、祖母の悪口を言った為、火箸を持って追い廻わされ、泣 きながら逃げ廻ったこと等があった。
祖母は小柄で善良なおばあさんだが、子供には躾が厳格であった。
明治維新以後、地方には封建社会の身分制度が、農民の生活に深くくいこんでいるのに対し、私は子供心に不満を持って居り、その上常食の麦飯が大嫌いであった。
父より分家して農業に従事するよう言われたが、私は都会へ進出して、商業を営み度いと、希望を持って居た。
日本の農業は、家族的小経営で小さな耕地を家族の労力に従って経営し、人を雇って経営するような資本主義的農業ではなく、又時の流れも生れながらの身分にしばられないで職業の自由も認められてきた。農家の子弟は一般に学力が低く、義務教育尋常小学校四年終了程度で、高等科には、特別の家庭以外は進学が困難であった。
私は獅子ケ谷旭小学校を卒業後、両親に頼んで、両分家の同級生三人で、鶴見村の生麦高等学校に入学が出来た。
学校の近くの総持寺の山腹に陸軍の射撃場があり、帰途には見物して遊び、遅くなって、父には度々叱られた。
十一才の時、兄と二人で村内の用水池に鮒釣りに行き、八月の上旬のこととて、余りの暑さに父より厳禁の水泳をして居るうちに、家人に発見されて、父の知るところとなり、お仕置の為、二人共兵古帯で縛られ、土蔵の中に入れられた。
其の時母の情で、白米の握り飯を三個と沢庵の切り身を差入れて貰った。兄は一個を食べ、私に呉れた。
兄の弟思いが身に泌みて嬉しく、当時、白米は正月かお祭りの人寄せ以外はロにすることが出来なかった。
父は水難を一途に恐れ、水泳厳禁を家訓の如く、暫くの間守られていた。
白壁の土蔵のわきの樅の大木が代々の祖先を見守るが如く、ひときわ高く聳え、風に揺らぐ実は我が茅屋におおいかぶり、新緑の初夏には鴬が鳴き、小川の魚取り紅葉の頃になると初茸ができ、柿の実がまっかに熟する。
また夜の星の美しいまたゝき、月夜の淡い感傷など静かな村の四季は質素な正直な子供に育てられた。
私の子供心の希望は十五才に成って始めて実現した。

八、山田薬店へ入店

東京市浅草区馬道五丁目山田薬店へ、薬種の見習として入店することが出来た。
我が国古来の漢方薬製造に従事すること一ケ年、其の後、主人に従い各病院と医師へ毎日薬品を持ち廻りして、夜は番頭と共に調剤の手伝いをして主人に喜ばれた。
私は業種の割合に少い薬剤師になる様に努力したが、主人の私的生活が良くなく、家庭内の紛争が絶えず、前途の期待が望めないので是非なく、一年六ケ月で退店し実家に戻った。

九、堀江商店の奉公

実家にあっても、都会進出の夢は捨てず、十七才の時、知人の世話で横浜市中区太田町五ノ八八堀江商店に勤めた。私の第二の奉公であり、又最後の奉公となった。
店は肥料と精白米の小売を業とし、肥料は太田屠殺場から牛骨を仕入れ、工場で粉砕しそれを桑木の肥料とし地方に売捌き、白米は船積みの伊勢米を馬力で引取り、倉庫に納入し、金網で小石や糠を取り除き、一斗宛麻袋に入れて、荷車でお得意に配達し、月末集金するのが私の仕事であった。
責任ある仕事なので、主人の言付け通り日夜心をそゝいで励んだ。
六ケ月後、主人の特別の計いで鶴見潮田の製肥工場に見習の為工員となり、入所し、肥料製造に専心した。
当時横浜も日露講和条約反対市民大会が、平沼町空地と羽衣座でひらかれるなど、反対運動を起し人々の心は動揺していた。
又横浜電鉄(現在の市電)が神奈川 - 大江橋間を開通し、京浜電鉄(現在の京浜電車)が品川 - 神奈川間に全通し、交通の便がいくらか良くなってきた。
十八才の時働きながら向学心に燃えた私は横浜商業学校(現在のY校)の夜学に入学し、仕事を終え机に身を寄せる時、母の手紙はいつでも細々と健康の注意をして、
「食べ過ぎをせぬように」「風をひかぬように」「けがをしないように」と書き添えてあり、母は私が健康で、立派な人物になるよう心から祈っていた。
毎夜、七時より九時迄の一ケ年間、珠算、英語を学んだ。
月謝は金壱円也で、不足分は理解ある主人が補って呉れ、他人とは申せ実子の如く可愛がってくれた。
人間が生きて行く為の社会的意義として、扶助の精神の必要が身に泌みてさとった。
私の青春の思い出と申せば、主人の孫娘に君枝さんと云う可愛いい少女が居た。
当時の女学校の通学の姿は下げ髪で、紅の蝶結びのリボンを付け、紫の袴で登校の姿はひときわ美しく、仲良く店の仕事を終えた後、二人で机を並べて勉強し、初めて異性に対する愛情が、心の隅で芽ばえ始めた。
奉公のつらさはなぐさめられ、一日一日と若き希望に燃え、楽しく過すことが出来た。
併しながら、幸福な夢は長くは続かず、私が二十才の春、突然獅子ケ谷の母が来店し、台町の田中家へ養子として行く為、主人に暇を告げに来たが、私は余りに一方的で、私の意見を無視しているので憤慨し、主人も簡単に許しては呉れなかった。
私も人生の岐路に立ったが、両親に説得され、再び、父が強引に主人に頼み、やっと許可が与えられた。
後日、母に聞かされた話であるが、主人は私を婿養子として、君枝さんと一緒にし、工 場の主任にする希望であったと、君枝さんは其の後神戸に良縁があり、現在幸福に過されて居るとのことである。
私は主家一同並び友人より餞別とお祝いを戴き、日清楼で盛大な送別会を開催し田中家へと前進した。

十二、現在の晝間家

兄は俗称田中山の山刈に行き、毒虫に刺され、丹毒病を患い小倉病院に入院したが、発病後僅か十四日間で享年四十一才の若さで他界した。唯一人の兄を失い心乱れる思いであった。
兄と分家の宇作君と私と三人で、富士登山、大山道了山寺に参詣し、帰途、松田の料亭で、芸妓を招き、豪遊し、私は田中家の若主人と解り、茶代金弐円也を奮発し、台の店で一泊した、ことなどあった。
兄に清、千代子の一男一女有り、長男、清は早稲田大学を卒業後、鶴見の森永製菓株式会社に入社、昭和十二年東寺尾町字飯山の持丸筆吉氏の二女繁子氏を娶り、現在資材課長として、活躍して居り、一男一女有り、長男光治、長女一枝あり、光治は現在浅野中学校に在学中である。
長女、千代子は分家し、東寺尾町より池谷家五男伍郎氏を養子に迎え、本家の農業を兼任し、同じく一男一女が有ったが、長男は急病にて惜しくもなくなった。

十三、田中家前史

神奈川の名は今の横浜市電神奈川通六丁目の辺から、東京湾に注ぐ「上無川」と云う流れがあり、田の落ち水が源らしく、上流が無いとの意味で、この発音が縮まって神奈川になったの古書にある。
他の説には、上代から、金川の名があり、源頼朝が「神大に示す」の字を当てたとも云っている。
神奈川は戦国時代は湊町として栄え、徳川幕府が江戸(現在の東京)に出来て、江戸を中心とする五街道の一つ、東海道五十三次の保土ヶ谷、戸塚と共に有名な宿場となり、-般旅人の交通の要点として繁栄を極めた。
普段細流の上無川は、高潮の時、海水が逆流してあふれ旅人を困らせた。
台の坂から神奈川宿に入るので、東海道を道足で歩いて来た、参勤交代の各大名行列はここで早足となり、歩調を揃えて、「エーホー」と鎗持は踊りながら歩き出したものである。
神奈川宿の風景は、浮世絵の安藤広重の錦絵に、旅情は、十返舎一九の膝栗毛に描写されている。
江戸初期の頃、神奈川宿の腰掛茶屋さくらや(現在の田中家の前身)は俗に権八茶屋と云って、侠客幡随院長兵衛の相手役、平井権八が立寄り、麦飯にとろろ汁で十杯食べたと云われて居り、東海道の山上の台町から上り下りの旅客は一帯に海でさゞ波がよせ返し、漁船、帆船の出入のある名も美しき袖ヶ浦を(現在の鶴屋町)眼下に見下し、崖の青松と後の高島山の四季の花は一幅の絵の如く絶景で、足を留め掛茶屋に腰を下ろし、鹿の子手柄に赤前垂れの飯売女が出す渋茶にのどをしめし、一句一吟、今に伝わるものも中々多い。
烏丸大納言光磨卿、関東下向の時、神奈川によりて「思ひきや袖ヶ浦浪立ちかへりここに旅寝を重ぬべしとは」 神奈川砂子に「遥々の沖の干潟に休らひて満くる汐に乗する釣船」忠順など詠まれている。
高島台に梅の院海養寺があり、境内に大日堂稲荷社、閻魔堂、秋葉不動天神の数々の社があった。
神奈川名所台の坂上には、昔の名残として明治四十年頃迄、腰掛茶屋があって遠眼鏡を据えて客を呼んでいた。
下台に米国と神奈川外四港の開港と通商条約の会議に使用した本覚寺(開港当時、米国公使館に使用)が有り、坂を下れば左に伊東製塩店。
犬山回船問屋、他に旅籠屋五軒、休み茶屋、めし屋が数多く並び、客人も夏の夜の夕涼みに石垣の下の棧橋から遊船を仕立て、酒肴を持ち込み、芸妓を同伴し、築港廻りをし楽しんだ。
その後、さくら屋から下田家となり高島嘉右衛門氏が経営していたが、祖父弥兵衛が之を譲り受け、「実家が四方田に囲まれ、一軒屋に由来」し、家号を田中家と改め旅籠料理屋を開業した。
さくら屋に関係があった、伊藤博文先生の家人の遺物を引継いだ。
祖父は磊落豪放で人情厚き人で、単身出京して、生粋の江戸料理を学び.家業に尽すことが多く、晝間家中興の人であった。
嗣子なく、明治二十四年郷里晝間家の次女ヌイを養女とし、四年後、享年五十三才でなくなった。
翌年、東京南鍋町勝山栄三郎の弟駒之助を婿養子として相続させた。

養父は二代目である。
養父は横須賀雑貨屋(当時質店現在のデパート)に番頭を務め、温情に富み、営業に趣味を持ち、時の流れを予知し得た、多才の事業家であった。
横浜北仲通へ株式仲買店を開業し、又伊勢佐木町入口に帝国商品館を新設し、商人に貸店舗となし、三階に玉突場を設け、支配人を雇い、養父も練習し腕を磨がいた。
又東京築地へ待合田月を、新富座の裏に鳥料理田毎を営業し、他に南洋海産物生子、鮑を採集して乾燥し、海産物問星へ売込み、一方北海道の金山より砂金採掘に着手するなど奮闘したが、大正末期から都市農村を問わず不景気になり、深刻な恐慌に見舞われ、中小工業が多く倒産し、取引銀行の閉鎖など起り、その上多角経営に人を得なかった為、惜しくも料亭経営以外は失敗した。
其の後、病気の為長らく医師の治療を受け、療養したが、昭和五年十一月他界した。

義父は家業に似合わず、酒類を一切口に入れず、甘味を好み、果物はきらさず、栗は大好物であった。
食事は紛食を余り好まず、魚類は喜んで食べられた。
養母は蔭の功労者で気性烈しく、愚痴は決してロには出さず、客席で紋付姿にて口上を述べる姿は田中家料理店の格式ある女将としてふさわしく、気品があり、客すじに評判を得ていた。
趣味は新派の伊志井、河合と花柳章太郎を好み、特に花柳会の連中を作り、開演中は必ず見物に上京された。
又 子飼の猫を愛育して、恰 も子供を育てる様に可愛がった。
当時三宝寺に猫の墓石を作り、命日には必ず供物を供え、参詣を怠らなかった。
養母は戦災後綱島の別宅で余生を楽しまれたが、老樹倒れるが如く、昭和二十六年三月七十八才でなくなった。

十八、現在の田中家

一八五九年(安政六年)に横浜が開港され、五十年記念祭が全市をあげてにぎやかに行なわれる時、私は二十才で、青木町田中家料理店に養子となり入籍した。
花柳界の社会は田舎そだちの私には別社会であった。
養父母の指導のもと負けぬ気の私は頑張ったが、営業上必要な電話もなく、やむなく隣の丁子家に借りる始末で、私は早速養父と計り、金五円也で(4)七〇五番を手に入れた。
二十五才に至り、義父勝山卯之助の長女キヌと結婚し、養父から負債金九千弐百円也と出入商人の未払金壱万円也を引き受け、営業を一手に引継いで、三代目となり責任者となった、月末一割の利息と元金の返済の為、私自ら節約を守り、今迄の仕入の無駄をはぶく為、早朝から港町の魚市場に出掛け、帰りて各部家の手入、庭の掃除、夕方になり帳場にて帳簿の整理、床に就くのが、十二時過ぎが普通で、従業員の女中十八人、下男一人、料理人三人、共々心を一つにして営業に打ち込んだ。
当時、はがきが一枚一銭五厘の時代であったが、営業成績も良く成り、特別定期預金一口金五千円也を正金銀行に五通預け入れ、安田、興信銀行にも夫々普通預金が出来るようになった。
県市が内外人の客の招待は、横浜公園か、市庁公舎で行われ、園遊会の模擬店出張は、関内では八百政、千登世、神奈川では田中家の三店で分担して引受けた。
お互いの競争がはげしく、料理の品質の向上と共に、女中のサービスに常に心をくばり、家内を女中、芸妓の指導に当らせ、接待の万全を計り、会の終了後、二次会は是非当店と誘致したものである。
当時芸妓は料亭へ招かれた時は、人力車と云って、人力車夫が人を乗せて行く二輪車で、送り迎えをしていた。
宮前町に見番(芸妓の取締りをする所で、芸妓に口のかかる時の取次や、芸妓の送迎、玉代の精算に当る。)の前に、車宿小田原屋有り、対湾亭には小田原出張店、名古家には江戸屋、丁子家には新田屋、田中家には信濃屋の人力車の常宿が有って、三十五、六人の若者がはっぴ、股引姿で、威勢良く人力車を走らせた。
代金は送りは、金六銭で料亭負担、帰りは金五銭で芸妓が支払い、車より出る芸妓のあで姿は、明治から大正にかけて花柳界の情緒があふれていた。
当時、半玉は太鼓を鳴らし鼓を打ち、芸妓は三味線の外に横笛を吹き、幇間(たいこもち)は酔客に興を添えたものである。
現在では東京の新橋、築地方面の花柳界で、僅かに人力車を使用しているとのことである。
毎年六月
神奈川の鎮守社洲崎神社の大祭には、芸妓の手古舞と仁和賀に出演し、現在でも、節分と大祭には仁和賀の行事が続けられている。
一般に女中は、頭は日本髪に丸まげか、いちょうがえしで、座敷着は錦紗か御召で紫の前掛を付け、下番、おかん番、すけ番、本番と分れて居り、下番は台所の女中で、二~三人居り、おかん番は酒の出し入れから、一切の責任を持ち一人、すけ番は、新参の者か、年の若い人が料理の運び、芸妓の名前を覚えるなど本番の手助けをした。
二~三人、本番は持番と云って、御客に対して責任を持ち、部屋、すけ番を客数に依って割り当てた。
十二、三人一部屋に付き、金壱円五十銭から金弐円也で、すけ番は一部屋に付き、金五十銭也で、月末勘定の入金に従い、帳面と照合して、帳場より支払を受けた。
中でも女中頭、たき、みや、みつは月収入壱百円前後であったが、個人別に料理仕込み庖丁、骨抜き毛抜きなど買わされ、持番を数多く取る為に、出費も多く、盆暮は店以外に、個人で夫々御客に対して、贈呈が行なわれていた。
営業時間は厳格で、九時より十一時迄であるが、九時より五分遅れても、新しい御客の本番の順に最後に廻わされた。
女中の仕事は、九時出勤、受持に依る各部屋掃除、料理の仕込みの手伝、午後三時より各部屋の夕掃除、入浴、着物のきがえ、午後五時より大玄関に勢揃いである。
美人の勢揃の威容は、実に見事で、余りの美しさに気の弱い御客の肝を冷やしめた。
御客の来店に従い、一輪ずつ花は列を乱していった。
女中達は年より在籍を重んじ、格式の高いものであった。
一九一六年(大正五年十月二十八才の時)私の忘れることの出来ない事件が芸妓見番と料亭の間に起きた。
芸妓見番の主権者小金井一家の元木、宮田両氏が料亭芸妓に対し、極度の横暴と独裁が頂点に達し、正当な理由なく、料亭に箱止めを通知し、芸妓には見番より三味線を引き取らせ、営業不能にするなど、料亭の死活問題となった。
そこで私は奮然として立ち上り、丁子家、対湾亭、名古家の幹部と協議の結果、警察署の保護を受け、出先全組合員四十一名が大改革を決議し、必勝を期して、新組合結成の為契約書を作り、違約者は金五千円也の罰金を取り決め、旧見番側の芸妓は一人も招かず、新 組合が誕生した。
横浜通信社長と弁護士安村氏を顧問とし、横浜貿易新報(現在の神奈川新聞)の社長三宅盤氏の紙面を通じて、広く人権の自由と悪質な中間搾取者の排除を叫び、大衆の世論に訴えた。
相手側には、他に川岸組の鈴木氏など配下に三百人位の人夫と命知らずの子分が多数居たので、万一の用意の為に、幹部は傷害保険に加入し、栄町待合橋本を本部とし、四斗樽の鏡を抜き、食事の炊き出しをして気勢をあげた。
一般輿論の理解ある同情を受け、新組合に加入する芸妓が日毎にふえ始め、十一人となり、組合結成後、一日も営業を休まず、七日間で相手方は完全に敗北を認め、無条件で見番を明け渡す申入れがあった。
私達幹部は胸をなで下ろすと共に、人権尊重の小さな灯をこの社会にはっきりと認めた。
全員で見番に乗り込み、祝盃をあげ、相手方より不動産を買い取り、芸妓、半玉、封間、約三百八十人料亭四十一軒からなる新しい芸妓組合事務所を設けた。
其の後、争議費用の全額を芸妓側が負担の条件で不動産と什器一切を芸妓組合に譲渡し、業界の発展と芸妓の育成に万全を尽した。
新しき時代に先鞭をつけようと横浜観光の外人客接待に、舞踏の必要を痛感し、横浜料亭代表者千登世、八百政、丁子家、私四人で山下町チエリーダンス教習所に入会し、店の階上にダンスホールを新設し、助教手と共に芸妓、女中を指導した。
当時の新聞に私と八百政の主人が、白足袋角帯の練習の姿を掲載され、顧客から賛辞を戴き励まされた。
其の時の無格好な姿が、今日でも限に浮ぶが、営業上私は必死にやったものである。
三十才の秋、営業家屋の大改築を行い営業成積も日増しに良くなり、従業員も三十一名に及ぶようになった。
又隣地を買収し、廊下続きの両親の別宅を新築し、両親にこの時始めて喜ばれ、私が養子として一応責任を果し、大いに嬉しかった。
一九二三年(大正十二年)九月一日関東大震災がおきて、全焼六万二千戸に及び、店も難をまぬがれず、灰燼に帰し、西園寺、島津、蜂須賀各侯爵の方々に色紙、扇面等に揮毫して、頂いた品々も土蔵と共に焼失した事は、誠に残念である。悲歎にくれ両親を励まし、屈せず、私は直ちに焼き跡を整理し、バラックを建築し、三品食事付五拾銭也で、大衆的サービス営業を為し、薄利多売が図に当り、日毎満員の盛況であった。
本建築の必要を感じ、資金調達の為、横浜農工銀行より土地家屋を担保として、金四千五百円也を借り、手持金の外、私が分家の代償として水田の贈与を受けた年貢米の貯金を併せて建築資金とした。
万一の用意に残して置いた定期預金は、父が株式店と砂金の採収の失敗の為、用にはたたなかった。田中家に入籍して以来、姑にはよく仕え、子供にはよき母で身も心も捧げて奉仕して呉れた、妻は産後の肥立が悪く、青木病院に入院渡辺博士の手厚き治療を受けたが、肺炎を併発して、遂いに大正十四年一月三十三才の若さで、不帰の客となった。
キヌとの間に三男二女有り、三男照男は未だ二才で体が弱く、殊更人手を要した為、昭和三年六月戸部町村尾家の三女ツヤを同業者美登理の媒妁で再婚した。其の後、ツヤとの間に二男二女が生れ、代々実子がない田中家で、第三代目の私が九人の子供を持つようになり、子煩悩の私は喜んだ。一九四〇年(昭和十五年)幸いにも第十回世界オリンピック大会を日本で催すことになり第一会場を東京、第二会場を横浜に、決定された。
委員会場を交通の便の良き田中家を予定し、当時の神奈川県知事有吉忠一氏の支援のもとに、共同設計で総坪数五百坪収容人員五百名の新建築に着手した。
材木は丹沢山の御料林へ県の土木課長と、トラックに同乗して下検分を為し、用材は鶴屋町の東和製材で製材し、大工は棟梁望月勇次郎氏に委任した。
一階は大広間、二百畳屋上七拾坪の庭園には八十個の電灯に岐阜提灯をつるし、恰も不夜城の如く、風でなびくさまは美麗を極めた。
表道路側は総三階で一階は帳場、調理場、内玄関、家族部屋、使用人部屋にあて、二階は小座敷とし三階は八十畳の結婚披露席と新郎新婦控室兼用の席を作り、廊下続きの別棟は表大玄関、大浴場、家族風呂、化粧室、休憩室、什器倉庫を作り二階の一部は外人用ホール娯楽室、三階は次の間付き二部屋を、所要期間一ケ年六ケ月心血を注いで、目出度く、昭和六年完成を見ることが出来た。
表三階は全席御料材で仕上げ、襖障子の腰は著名な横浜新進の画伯に依頼し、東海道五十三次の名所を画き、照明はシャンデリヤ電気器具と米国製ガス灯器を取り付け、実に豪壮であった。
下台に貸家を六戸、菊名町に角和氏より土地千五百坪を買い取り、別宅も同時建築出来た。当時の県木材会社々長小此木氏は「東海道以東には、田中家以上の建築物なし」と折紙を付け、更に付け加えて、
「横浜の田中家であり、天下の田中家である。」と激賞を戴き、県市会及び京浜間の諸会社の商取引に多く利用され、全国市会議長会議、三百五十人の会場にも使用された。
私は営業を通じて、社会的にお役にたったことを生涯の喜びとしている。
営業場の増改築に依り、事業成績が向上し、個人所得の多額納税者となった。
当時、貴族院は多額納税者の中から互選され、社会的地位は認められていた。
一九三九年(昭和十四年)第二次世界大戦が始まり、国際状勢が悪くなったので、日本自らこの権利を捨てた為、オリンピック開催は中止のやむなきに至り、初期の目的が実現出来なかったのは非常に残念であった。
一九四一年(昭和十六年)太平洋戦争始まり、戦争も益々拡大し、内地の空襲も烈しくなり、毎日開店休業の有様で、私は時局の重大なることを見きわめ、涙をのんで営業家屋の売渡に腹を決めた。
日本鋼管株式会社間島重役を通じて、川 田社長と会見し、売 渡契約成立の手続の最中に、突然海軍司令部磯部大佐の命令で、会社の契約は取り消しとなり、即日、強制的に海軍士官寮と指命され、私は指揮官たる寮長に任命された。
料理人二名、女中雑役八人で三食の食事を提供することとなり、国家総力戦の時、私は喜んで公私の別なく、士官の方々に奉仕をしたが、入居者は全員特攻隊の連中で、尽忠報国以外は念頭に無く、血気にはやり、玄関から泥靴のまま出入をし、飾られた床の間に靴を並べ、大声で征歌を合唱し、食事待遇にも苦情を付けるなど、敗戦の程もうかがわれ、怒るよりも憐れみをもよおした。
ツヤには栄町の待合八千代を買い取り、新田中の屋号で小料理屋を開業した。
其の後、戦争も長期化されるに従い、我に利なく海軍寮も解約され、再び、日本鋼管会社と賃貸の契約を行うこととなり、私が再び寮長となった。
寮生は殆んど大学生の学徒で、士官寮と異り世話がいがあり、応召ある如に大広間で壮行会を盛大に開き、皆で国旗を作り駅まで歓送の世話をした。寮生の内三十人位出征したが、生還出来た人々は五、六人を数える位で、将来有望の若者を戦争の犠牲にしたことは、戦争の罪悪のこれにすぎるものはない。
僅か八ケ月、昭和二十年五月大空襲が有り、横浜の中心部は全滅し、人口の四四%が戦災を受け、焼失戸数がなんと九万八千戸に及んだ。
私の店も災害を受け、全焼したが幸いにも菊名町の別宅は焼失をまぬがれた。
焼け跡に立った私は既に六十に近く、今日迄の努力が、ニ度までも灰燼に帰したことは残念で男泣きに泣いた。
三代まで築きあげた田中家の店舗は、必ず復興すると祖先に誓った。
一九四五年(昭和二十年)八月六日アメリカの日本攻撃はますます激しさを加え、ついに世界最初の原子爆弾が広島に投下され、力尽きた日本は十五日降伏し、長い苦しい戦いを終えた。
家族の長男、次男、三男も応召したが無事復員した。敗戦は国民に大きな犠牲を払わしたが、私の家族一同欠けることなく、無事に過せたことは、神仏に感謝を捧げた。
私も適齢に徴兵検査を受け陸軍歩兵に合格したが、幸か不幸か籤免れとなり軍隊のきびしい教育の体験はないが、現代の青年諸君は軍隊教育を受けないので、徒らに自由意志に走り、往々新聞紙上を賑すことがあるのは、大いに心すべき事である。
長男、孝之は小田原山崎家の長女鈴子を娶り、一男一女有り、次男、昌八は綱島富永家の長女、真佐子を娶り、二男あり、綱島で旅館田月を経営し、三男照男は名古屋長坂家長女、香代子を娶り、一女有り、入江町で食堂を営業し、長女、松江は横溝家に嫁ぎ、一男一女有り、次女、春子は牧原家に嫁ぎ、一男一女有り、四男、宏は六角橋田中家の長女、久枝を娶り、五男、唯男は篠原町峯岸家の長女、美智子を娶り、三女、和子は箱根蔦家旅館沢田家に嫁ぎ、四女、綾子は小机大倉家に嫁ぎ一男有り、夫々所を得て、幸福な家庭をいとなんで居る。
戦争の被害は思いの外大きく、残された人々も食料の乏しさに、苦しい日々を送らねばならなかった。
営業場の焼失に依り、生計の途をたたれたので、妻の名儀で綱島に旅館田中家を開業した。
家族は菊名の別宅に住居を移し暫くの間、土に親しみ食料を補った。
現在の建築物は、戦時特別条例で建坪十五坪に限定され、是非なく十五坪一戸と共同住宅として、三十坪の許可を得て、仮建築で営業を始めた。
次に旧大玄関と大浴場の焼け跡に、別館七十坪の総二階の客室と浴場を新築し、同時に本館の大改造を行って、一応焼失前の三分の一の建物で、営業上差支えないようになったが、私は観光方面から云っても、四季に旅客を迎えるには伊東、熱海方面の温泉旅館に勝るものはないと考え、準備をしている最中に、平 沼市長が来店され
「横浜は内外人の旅客を心から接待出来る施設が少なく、それが為、東京方面に殆んどが利用され、横浜は素通りの有様である。
横浜市の復興の為、一役を買って昔の田中家として、宴会場の増築をするように。」と要望された。
私も一市民として責任も有り、心を決め、温泉地進出を断念した。
早速、長年懇意にしていた、鹿島組横浜支店長石村氏に相談した処、横浜代表的の田中家の増築は良い宣伝になるから利潤を度外して、引受けると快諾された。
設計は高梨氏が担当し、地鎮祭には、金比羅神社の宮司吉田氏が当り、田中家一族と石村支店長他多数列席のうえ、厳かに取り行われた。
建築様式は京都市の桃山御殿の形を取り入れ、地上三階鉄筋コンクリートと木造の建物で、一階は建築条令に依って大浴場と娯楽室の予定とし、二階を百畳敷の大広間、三階は小宴会場四室を完成し、本館別館とは廊下を増設して、総坪数壱百弐拾坪の近代的な料亭が昭和二十七年五月十日、目出度く落成した。
落成祝を三日間にわたり行ない、知名人及び顧客、会社関係の方々を招待し、各方面から祝辞を戴き、資本主義の社会にあっては、生産財、不動産など個人の私有するところとなり、自由であるが、社会と企業の関係に於て、人の間の和が如何に必要であるか、深く察知された。
新館は婚礼並び大小宴会の会場として、利用されるに至った。
本館並びに新館の一部を旅館部とし、日本観光連盟並びに交通公社指定旅館となり、横浜駅の便が良い為、京都、大阪方面の旅客に多く利用され、喜ばれている。

一九五三年(昭和二十八年)業界の宣伝の為、知事市長の力添えを得て、東京の「東をどり」にならい、神奈川の花柳界に依る第一回の「神奈川をどり」を神奈川会館を使用して、五月二十二日より三日間開演し、次に第二回を昭和三十年九月十五、十六、十七日の三日間県立音楽堂を使用して出演し、県市より協賛を得て、一般大衆から賛辞を与えられ盛況であった。
其の後、知事より「神奈川をどり」を「浜をどり」と改称して、各業界の関内、日本橋、磯子、掃部山、神奈川、鶴見より選抜して横浜名物とするよう要望され、市内の三業界の幹部の賛成を得て、「横浜開港記念みなと祭」の一貫事業として、振興会長を田中省吾先生の御承諾を頂き、五月下旬より六月上旬に県立音楽堂で共演することに決定した。
本 年は第四回を無事上演し、時 節柄芸妓は本来の芸で生きる芸能人であることを、一般大衆に認識を与えたことは、業界の為、喜ばしいことである。
横浜開港記念祭には、第一回目に私の構想でトラック仮装にて「或る日のお吉」を出演することになり、車上に料亭の座敷を設け、床の間には喜多川歌麿の美人画を掲げ、米国人ハリスは蒔田の主人平作氏に、お吉は神奈川の芸妓百々子に、芸者半玉三人と女将を接待として、お吉がハリス氏を心から好意を以って歓待している情景である。
車の前には料亭の主人が揃いの浴衣で、芸妓は手古舞姿で並び、後は出先女中連中がはでな浴衣姿で、総勢六十人が神奈川音頭で興を添え、行列に参加した。
審査の結果、大好評を得て入賞し、金壱封と銀カップを受領した。カップは各出場組合にまわし、最後に蒔田の平作でカップにて祝盃を上げ、入賞祝を祝い合った。
私の入店以来、従業員一同、今日迄店の為に尽力された方々も数多く、在籍のまま死去された人々も有り、私心を離れ、暖簾を確実に守り、良く尽して呉れた。
殆んど一生を田中家の為に捧げ、務め上げた人々も少なくなく、中でも座敷女中寺井てる「呼称おみやさん」は勤続年数四十参年に及び昨年十月を以って、満七十歳を迎え、店を去ることとなり、営業ひとすじの私は片腕を失った如き思いで残念で、正直に、勤勉に働き続けたその誠実に、心から感謝するとともに、模範となす可き人であった。
送別会を広間で盛大に行い、記念品を贈呈、神奈川三業組合より表彰状授与などあり、其の後、おみやさんの招待と共に餞別を贈られた会社の数も相当多く、営業を通じて人柄がうかがわれた。

横浜市役所も戦災に依り、全焼し事務を扱う事不能となり、止むなく、公園前の焼跡に天幕張りのバラックで執務して居たが、不便の為、他に仮設地を物色中、幸い神奈川反町の焼け跡は交通至便と、市内中心地にて仮設市役所建設には最適として、誘致運動を起し成功し、附近の商店街は著しく発展した。私は地元業界の組合長に就任した。
遊興飲食税の撤廃の為、神奈川県三業組合連合会を結成し会長となり、東京本部と連絡を計り、税率の引下げに成功した。
又全国花街同盟及び料理同盟に加入し、全国的に手を結び業界の発展に努力した。業界の対外的強大な必要を感じ、普通飲食、社交喫茶を含む五業組合連合会の常任相談役となり、更に八業連合会の役員を務め、業界に課せられた遊興飲食税の完全撤廃を目標に会の運営を計った。
横浜復興委員及び地区劃整理委員となり、市内接収地の解除と整理地の換地に尽力した。
又東横線の台町起点として、渋谷行き電車軌道工事は故平沼亮三氏及び町内有志と再度審議の結果、後日路線の延長の場合も神奈川駅は存置する契約の下に承認完成した物である。
現在は法人有限会社田中家とし、長男孝之は社長となり、私は監査役となり、一家をあげて、営業発展に協力して居る。尚横浜商工会議所議員改選に当選し、観光部に籍を置き現在第二期生議員となり、内外観光客の誘致と受入設備の改善新設に付いて、県市会議員及び観光課長と再度懇談して実行に推進した。
故平沼市長が在世中、渡米帰朝後「滞米四十八日」の著書と米国の有名な油絵の額を贈られ「君も一度は外遊して、外地のサービス業者の経営状態を実際に見学して、視界を広くし給え」と云われた。
一九五八年(昭和三十三年)五月、横浜開港記念夏祭行事に各国の外人を招待した答礼として、私等商工会議所観光部議員に外遊の招待を受けたが、病後健康に自信がなく、折角の好期を逸したが、在職中時期を見て世界半廻りだけでもがたい念願である。
目的が叶って無事帰朝した時は「赤毛布行状記」を書いて、皆様に読んで貰いたい、と今から考えている。

最後に私の最大の喜びの一つは、大正初期に鶴見浅野造船所の落成式に三日間に亘り、毎日折詰三千五百本と模擬店十二軒芸妓半玉百人を接待に申込みを受け、陸は会社専用自動車と海は機帆船で輸送して、無事に祝賀会を努め、夜は毎日(平均)五十人以上の宴会を承り、連日三年程の年月、川崎昭和電工会社の御申込と合せて、毎日五十人以上六、七十人の御用命があり、造船、電工の田中家と呼ばれ、実に我が世の春の思いであった。
又第二は有吉知事の御声がかりで、丹沢山の御料林の払下げを受け、総坪数五百坪の豪壮な建物の完成である。
尚最も深い悲しみは一回の看護も出来ず、世を去られた実母の死であり、次は国難とは云え、心血を注いで一年余の長期間に、漸く落成した御用材建物の焼失は、私が再び手にする事が出来ない宝物で、実に悲愁の思いが、十数年後の現在でも、忘れられぬ事であった。

三九、後編

前編は私の古稀の思い出であります。
其の後十年の歳月を過ごして一九六二年に市会、商工会議所両議員様と同行、貿易振興のため、東南亜細亜を訪問しましたが、姉妹都市の会議所主催の昼食会に招待を受け、其の席上で新聞記者諸君の質問で訪問先の感じの良い国は何国か又営業は何かと聞かれ誠に英語は不得手で冷汗を流して感じの良い国はサンチャゴの御国であり、営業はジャパンホテル・レストランですと答えましたが、十分に赤毛布を味わいましたが、次いで一、九六四年世界オリンピック大会が東京に決定され、第二会場は地理の良い横浜と予定されましたので、市代表の御一行の方々と同行外人誘致の目的で欧米諸国へ四十五日間出張致しましたが到着第一日に業者の東京観光の招待で日本食を御馳走になり、閉会後友人がライターを忘れ受取りに行く間に一行はホテルに帰り一人も居らず仕方なく食堂の主人に話をした処幸いに日本人で広島出身との事で早速ホテル協会へ電話で問合して貰ったが、何分数ある業者の為中々見当らず十二時近くに漸く日本観光団宿泊のホテルが見出され十二時半頃ホテルへ着き安心しましたが、其の親切は未だ忘れられません。
案内者がホテルの予約が出来なかったとの事で、スケジュールに記してなく仕方がないと思って居ります。
其の後は各自ホテルのマッチを持って外出する事にしました。

帰国の途中台湾に立寄り基隆の市長を訪問しました処、市長は大変喜ばれ、私と同年との事で握手をして是非共今一回は渡台する様にと云われ其の後毎年年賀状を交換して居りました。
訪問先の国々は良く理解して大いに喜ばれ開会には大勢で見学に行き横浜にも立寄ると云われ一応成功して帰国の仕度にかかり、フランス国のホテルから船便で不用の衣類と土産物の発送を頼み約一ケ月半に着荷、税関員と立合で開きましたが、中には古雑誌丈で新調の背広、セーター、其の他一品もなく驚きました係員の話に最近観光団の荷物は被害が多いと云われ以後は飛行便なら大丈夫の様ですとの事でしたが後の祭りでした。
又観光団を迎える準備として業者連合会は日本料理の取合せと芸妓の組踊を作り観光団専用として特別の安い値段でサービスする事にし、欧文で美しいパンフレットを印刷して、海岸の交通公社を通して各国へ郵送し、従業員と芸妓には英会話の本を与え、別に英語の先生を迎え会話の練習をして受入体勢を整えた。
オリンピック開催中に各国の外人が当店は約八十名程公社扱いで来館されまして、会場を二階広間に当て室内は歓迎の装飾をして各テーブルには観光団の国籍の国旗を取付けて、皆様に扇子と錦絵を差上げ大変喜ばれ過日訪問したかいがあったと喜んで居ります。
又私方の姓の晝間は余り他になく珍しいので、良く御客様から君の家は夕方からの営業だから夜間と改姓したらと御冗談を申されましたが、其の当時は何分はがきが一銭五厘の時代ですから夜間からでも営業になりましたが、現在では朝早く夕遅く迄働かなけれは営業になりません。
此の姓は先々代の名主が奉行から苗字帯刀を許される時姓を晝間と奉書紙に認め差出しました処、奉行は日本国内で始めての姓であるから理由を問われ名主は人は生を享け太陽の光線に依り生長し、日光の力で勉学と仕事を勤む事が出来る故代々太陽の有難さを忘れぬ為、晝間の姓を御許し下さいと申し上ました処、御褒めになり許可されたとの事です。
なお、私の名前の富長は亡父が長男は家督を相続し、農産物の増収に力を務め国力を盛んにする様、盛国と呼び次男の私は都市へ進出して長者になる様富長と名付け三男は長者が出来ると善くない事をする人があるから警官か軍人になる様に武範と名付たのですが亡父は中々心臓が強かった様です。

又皆様も御存知の通り現在我国の老後の保護施設が外国に比べ大変に低く国家と社会に奉仕して老人になった方々の老後の生活が恵まれて居りません、横浜市も老人クラブ結成を奨励して僅かながら助成金を出して居りますが、各クラブ会も資金難に困難して居りますが、神奈川区も約百弐拾余の老人クラブを結成されて各会長は良く努力して居りますが、当台町も鶴屋町一丁目と合同して台町老人クラブ光寿会を昨年一月十五日成人の日に結成し、町内会外委員の熱心な御骨折りで正会員と賛助会員併せて弐百名近くの多数の会となり、不肖私が会長を努め会員皆様の健康と家庭内の相談の外、慰安会旅行等を催して成績向上を計って居りますが、未だクラブ会結成されてない御町内がありますので、是非一日も早く年寄りの為めに老人クラブ会結成を御願い致します。
なお、後編を追記するに当り誠に悲しい事は田中省吾先生には御生前大変にお世話になり、私の回想録の序文を御執筆頂き、又浜をどりには振興会長の重任を御快諾下された先生が一昨年急逝され、誠に残念で只今は御冥福をお祈り申し上げて居ります。
では、此の辺で後編を終りたいと思います。
永い間御愛読を頂き有難く御礼を申述べます。皆様いつまでも御元気で御機嫌良く御過しの程御祈り申上げます。

著者
昭和四十四年九月廿八日 満八十歳の誕生日

私の親愛なる皆様へ